劣等感と自分の居場所

 私は今、版画や絵本を作って生きています。小さい頃から絵が好きだったのですか?とよく人に聞かれます。絵を描き始めたのは、劣等感から逃れるためでした。


 私の記憶は幼稚園に遡ります。鼓笛隊があって、上手に出来る子は前列で太鼓や鉄琴を演奏します。その他はピアニカ。そして私のように下手な子は後列にまわされます。先生は私の耳元で言いました。「音を出さなくていいよ」。
 工作の時間はお手本を見て、折り紙を色画用紙に張り込みます。私はいつも見本通りに折ることができません。折り紙はシワがつけばつくほど折りにくくなります。泣きながら折って、みんなの綺麗な作品の中に私のしわくちゃの作品が壁に貼られます。その教室にいるのが苦痛でした。
 母は子どもの可能性を伸ばそうと、私に3歳からバレエとエレクトーンを習わせました。バレエは人と揃うのが嫌で、同じように踊ることができません。エレクトーンは楽譜通りに弾けず、ずっと同じ曲から進みません。同じ教室の子に新しい楽譜を次々手渡す先生が、最後に「あなたは先に進みません」と言いました。どちらも1年くらいでやめました。

 三人兄弟で姉と弟がいました。女女男と生まれ、初めての子、最後に生まれた子を気にかけるのが親というもの。しかも3年ずつ違う。入学式と卒業式がかぶれば、ひとりで参加します。兄弟ゲンカも2対1で私がたいてい孤立しました。
 私は赤ちゃんの時から、オッパイを人一倍飲み、すぐに泣いて泣き止まない、夜は寝ない、と母の手をいつも煩わせていたらしく、私だけが保育園に行かされました。(保育園でも昼寝を拒否して中退)
 そんな訳で、大人たちからすると、手のかかるめんどくさい、ちょっと好意を持ちにくい子だったのです。相手の気を惹(ひ)こうとして目立つことをして煩わせ、更に疎まれるという繰り返し。私の心は満たされていませんでした。


 家にいる時間、私はあれこれ空想したことを片っ端からチラシの裏に描いていきました。
描いている間、私の心は平穏でした。私は絵の中で上手くエレクトーンを弾き、自由に踊ります。飼いたい犬を散歩させたり、素敵なドレスを着たり、集中している間、私は空想の世界に飛んでいました。絵を描いているときは静かで周りの人にも都合が良かったのでしょう。母は描き上がったものに日付を入れて保存してくれました。

3歳、あれこれ空想したことをチラシの裏に
描くことで心の平穏を保っていた。
描き上がった絵に、母は日付を入れて保存してくれていた。


 ある日、母が画用紙を持って来て、「私を描いて」と言います。私はものを見て描いたことがありませんでした。観察して初めて描いた母の絵を、母はとても喜んでくれました。そしてその絵は、母の日の絵画コンクールで最優秀賞をとりました。小学校2年生で、自分が人を喜ばせる手段を持っていることを知りました。
 小学校でも相変わらずいろいろなことが苦手で、跳び箱も逆上がりも、ひとり放課後残されていました。でも、絵を描くと友人達が寄ってきます。得意なことがひとつでき、それが人と繋がるきっかけになるということが大きな自信につながりました。 

          
 得意なものだと自覚してから、ますます絵を描くようになりました。美術大学に入り、デッサンや技法を学び、絵画教室や予備校の講師など、絵に関する仕事で収入を得られることも嬉しいことでした。そして、その時感じたことを絵本で表現し始めました。それは、疑問や満たされない気持ち、怒りなど、子どもの頃していた空想遊びに近いものでした。自分の考えを見る人に伝えることを意識しながら描くようになりました。

転 機

 そんな時、恋をしました。その人は私と違って何でも上手く出来る人でした。私は彼に憧れ、彼のそばにいたいと思いました。彼は絵を描く私ではなく、いつも彼を慕う私が好きでした。絵を仕事にせず趣味でやればいい、と彼に言われ、急に自分の描く作品を人に見せるのが恥ずかしく思えてきて、絵をやめてしまいました。私は今までの全てを置いて、彼の住んでいる山村に移り住みました。田舎で、ほとんど人に会いません。以前の私を知っている人が誰ひとりいない中、出来ないことばかりで失敗しては落ち込む毎日。彼はいつも私を怒ります。私はできるように努力してみますが、上手くいきません。彼は私に言いました。「君は何もできない。君はひとりでは生きられない」。
 私は幼稚園で感じた感覚を思い出しました。でも、あの頃と違って自分のできることも知っていました。出来ないことを責められるよりも、できることで人に喜んでもらえる方が私にとっても、周りの人にとってもきっといい。絵を失った自分には何もないことがわかった。自分は本当にひとりで生きられないか? 絵で試してみたい、という気持ちが湧いてきました。私は決心して彼と離れました。

 
 実家に戻った私は部屋にこもりました。心を鎮めて手の任せるまま描いたものは、別々に暮らす恋人同士が、夜、夢の中で手を繋いで空を飛ぶ絵でした。失恋した自分から、このような作品が生まれてくることが不思議でした。実現出来ないことをたくさん紙の上で叶え、ワクワクしていた小さい頃の自分を思い出しました。大丈夫、きっと描ける、やっぱり私は絵が好きだ。その絵は版画家として生きる第一号の絵になりました。

「遠く離れていても」 別れを選んだ直後、
実家の部屋に籠り思いのままに描いた絵。
この絵が版画家として生きる第一号となった。


 その後、以前に作った絵本が賞をとって出版されることになりました。就職してから乗り始めた満員電車をテーマにした絵本。当時、通勤が辛くて通勤風景をあれこれ夢想して生まれた絵本でした。現実から逃避する手段として作ったものが、誰かを楽しませている。

通勤での満員電車が辛かった時、車窓に虹のかかる滝や草原など
美しい風景が次々に広がることを夢想して現実逃避をしていた。
その体験から生まれたのが、絵本『ぎゅうぎゅうゴトゴトゴト』。


 自分の苦手なことで落ち込むより、自分のできるところを認めて、それを喜んでくれる人と繋がっていた方がいい。私はとても不完全な失敗ばかりの人間ですが、それがたくさんあるから、絵を描き続けているのです。

この記事を書いた人
【古知屋 恵子】版画家・絵本作家
茅ヶ崎在住。多摩美術大学油画科卒業後、おもに木版画作品を制作。白黒の一色刷り、多色刷りの木版画のほかに、手作りの紙芝居・カルタなど幅広く作り続けている。毎年、秋から冬にかけて茅ヶ崎や都内で個展を開催。著書に『ぎゅうぎゅうぎゅうゴトゴト』(新風舎1996年)、『ベルダのしごと』(遊行社 2018年)がある。