チリからメッセージが届く

 2年前までパソコンもスマホも家には存在していませんでした。

 新しい電化製品を買うのをやめようと25年前に思って、それから少しずつ電化製品を持たない暮らしに変えていったのです。残念ながら、時代は私に合わせてはくれません。情報が得られなかったり、チケットが取れなかったりと、不便を感じるようになり、ついにWi-Fiに接続することにし、私はiPadを持ちました。

 見知らぬ遠くの人と繋がるより、近くの人を大事にすればいいと思っていたので、SNSに興味のなかった私ですが、友人がインスタグラムを設定してくれ、これが私に大きな転機をもたらしました。

 その後、新型コロナウィルス感染症が大蔓延。私は展示会ができなくなり、版画を Instagram(インスタグラム)に投稿しながら、その絵にちなんだコラムを書き始めました。すると海外から反応がありました。

 一番初めに声をかけてきたのはチリの人でした。ほぼ地球の裏側、この地球上でも一番遠いと思われる国!

「チリで pandemic をテーマにした国際展覧会を企画している。この状況を記録することはアーティストとして非常に重要だと思う。白黒の木版画限定で募集、是非参加してほしい」。 私は趣旨に賛同したので、すぐに参加を申し出ました。

 展覧会を主催するのは美術団体からと思ったら、声をかけてくれた30代の木版画家ラド、たった一人でした。彼のアトリエの名は、Xilografia o Muerte。これはスペイン語で「版画を作るか死ぬか」という意味。森林伐採に反対している彼は、廃材のみで作品を作り、両腕には彫刻刀のタトゥーを入れています。  チリは日本よりちょうど12時間遅れていて、こちらが日曜日の夜10時だと向こうは日曜日の朝の10時。私が眠る準備をする時、向こうは起き始め「おはよう、僕が寝ている間にどれだけ制作が進んだか見せて」「今日、一枚完成した。これから寝ます。私はひと足早く明日ヘ行きます」という感じ。季節も逆だから、「寒くて厚着しながら満月を見てます」と言えば、「こっちは避暑で川遊び中」という返信。ちょっと不思議なやり取りになります。

チリで開催された pandemic をテーマにした国際展覧会に出展した作品。
タイトルは「あなたにとって本当に大切なものは?」。


 この展覧会に出品した私の作品のタイトルは、「あなたの本当に大切なものは?」。

―強欲な生活をし続けていると本当に大切なものを失う、とパンデミックが教えてくれたー  (版画上のメッセージ)

 それぞれのマスクにその人の大切にしているものが描かれています。

人間の戸惑いとは別に、自然が生き生きと蘇ったことも忘れたくないと画面に加えました。 そして、日本政府が、どさくさに紛れて高額の税金を投入した布マスク配布事業は、支払先企業の中に、なかなか社名を公表しなかったところがあり、安倍政権との癒着が疑われました。このことも忘れたくなくて、「アベノマスク」を一人だけしている安倍首相と、自粛せず旅行や会食を楽しんだノーマスクの妻も描きました。

         

社会を変えるための木版画

 チリでは、1973年に軍事クーデターがあって民主的に選ばれた大統領が自死に追い込まれ、軍事独裁政権になったことは、ドキュメンタリー映画を見て知っていましたが、今どのような状況なのかは知りませんでした。

 彼の話では、現在のチリは議会制民主主義でありながらも、今もずっとこの独裁政権を引きずっていて、私腹を肥す政治家や経済界と民衆との経済格差が更に広がっているそうで、富裕層と貧困層とは、受ける教育も住む環境も就ける仕事も違うので、一生知り会うことがないほど、住む場所が明確に分かれているとのこと。

 
 インスタグラムでチリを見ると、路上では当たり前のように頻繁にデモが行われ、歌ったり、踊ったり、仮装したり、老若男女が路上を占拠。いつも街のどこかが燃えていて、壁には絵やメッセージが落書きしてあり、いろいろな場所に抵抗を示す白黒の木版画のポスターが貼られていました。そう、チリでは木版画は安価で気軽にできる、抵抗のアートの象徴だったのです。木版画を直接Tシャツに刷ってデモで着たりもしていました。私が展覧会に誘われたのは、たまたま私が白黒の木版画を作っていたから、ということがわかりました。


 ラドは、反体制を理由に投獄された人々を支援する資金を集めるため、広場で廃材を利用した木版画制作ワークショップも開いていました。その場で人々は思い思いのメッセージや絵を彫った板木に油性インクをローラーでのせ、木のスプーンで擦って摺り上げます。こんな風に屋外で木版画をする光景を日本では見たことがありませんでしたが、この展覧会に参加している作家の何人かが屋外で製作している写真をアップしていて、私も真似して屋外製作を始めたら、自然光は素晴らしく、風が気持ちよく、鳥の声や木々の葉音を聴きながら版画を彫るのは最高でした。なんといっても、木屑をそのまま落として土に返していくのも気持ちいい。私は晴れた日は外で版画を彫るようになりました。

 日本からこの展覧会に参加したのは私だけではありませんでした。日本から参加したメンバーの何人かはA3BCという木版画グループのメンバーで、社会に問題提起をする版画を作っている人たちでした。彼らは曜日を決めて集まり、下絵を何人かで同時に彫って大作を仕上げたり、他の国の版画家たちと交流し、作品を制作することで連帯を示していました。(制作作品はA3BCで検索して見ることができます)。世界のあらゆるところで、自由を奪われている人たちが、アートで抵抗し連帯している……そして、今の日本でもそんな木版画作家がいる、ということに感動しました。

 ある日、ラドにメッセージを送ったら、映像が送り返されてきました。夜、大勢の人たちが広場に集まって歌ったり踊ったり、花火を打ち上げている映像でした。

「今、広場にいる。今日はすごい日なんだ。国民投票で新しい憲法が制定されることに決まったんだ。これはチリの歴史上すごいことなんだ」。私は胸が熱くなりました。まるでラドと一緒にチリの広場にいるような気がしました。

 近くの人との交流で満足していた私の心は、SNSでチリに飛んでいました。

そしてこの出会いは、私の木版画の概念を大きく変えたのでした。

この記事を書いた人
【古知屋 恵子】版画家・絵本作家
茅ヶ崎在住。多摩美術大学油画科卒業後、おもに木版画作品を制作。白黒の一色刷り、多色刷りの木版画のほかに、手作りの紙芝居・カルタなど幅広く作り続けている。毎年、秋から冬にかけて茅ヶ崎や都内で個展を開催。著書に『ぎゅうぎゅうぎゅうゴトゴト』(新風舎1996年)、『ベルダのしごと』(遊行社 2018年)がある。
*作品は古知屋恵子の Instagramでもご覧いただけます。
https://www.instagram.com/kochiyakeiko/?hl=ja