日本の彫刻刀に憧れる海外木版画家
チリの作品展に参加してから多くの外国人版画家とSNSでメッセージを交わすようになりました。日本の版画として世界に知られているのは、やはり浮世絵です。海外の方に、私は神奈川に住んでいると伝えるとき、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の画像を添えるととても好評です。日本の木版画技術は最高峰で、日本を木版画の聖地のように考えている人も多く、刀の国・日本の彫刻刀は外国人木版画家にとっての憧れ。日本と外国では彫刻刀の形も違い、驚きました。
日本の子供は小学校の授業で木版画を習い、自分の彫刻刀一式を持っている、と言うとみんなびっくりします。私たちが当たり前に使用するバレンも外国では一般的でなく、油性のインクをローラーでのせた後、スプーンの裏やガラスの玉で摺っています。
チリの国際版画展で知り合ったチリの版画家が「木版画を習いに日本に来たい」と言うので、知り合いの木版画家が講師をしているレジデンス(アーティスト・イン・レジデンス事業で、滞在して創作活動をする施設・土地)を紹介しました。そこでは、外国人が宿泊しながら、日本の伝統的な木版画を習うことができるのです。彼は審査に合格し、コロナが収まったら日本に来ることが決定し、とても喜んでいました。
実のところ、私は大学で油絵科に在籍し、銅版画を専攻。木版画は小中学校の授業で習っただけなのです。いつも、心のどこかで木版画家と名乗っていいのだろうか、というためらいがありました。手摺りを学んだことがなかったので自信がなく、銅版画のやり方で、油性インクをローラーで板木に乗せ、銅版画プレス機で洋紙に刷っていました。
海外の版画家と話すうち、日本では高い技術の木版画を学ぶ環境が整っているのに学んでいないのは非常にもったいない、やはり和紙に手摺りをする技術を身に付けたいと思うようになりました。
和紙の世界
そんな時、レジデンスで講師をしている木版画家が、私に伝統的な木版画の摺りを個人レッスンしてくれると申し出てくださり、木版画生活25年目にして、初めて手摺りを学びました。そして、そのレジデンスを運営しているギャラリーが、手摺水性木版画を作成してくれるモニターを募集しているから参加してみたら、と誘ってくれました。モニターになれば、無料で高級な和紙や絵の具を使用することができます。私はそこに幸運にもエントリーすることができました。教わった技術を思い出しながら和紙の摺り比べをし、和紙の摺りの素晴らしさを体感しました。やはり良い和紙は強度があり、細部も美しく摺りあげることができます。摺ってみて初めてわかったのは、湿気が大切だということ。
彫刻刀、和紙、刷毛、墨、バレン、湿気。この日本の風土、気候に適して今に受け継がれているものだと気づき、木版画ができる幸せを感じました。
この企画には、新型コロナウイルス感染症の影響で学びにくる外国人がいなくなってしまったので、この機に、和紙工房や絵の具メーカーと連携して、日本国内に木版画の良さを広めようという趣旨がありました。モニターの作品展が開かれた際、和紙職人からお話を聞くことができました。それは私に衝撃をも与えました。
「どうか、こんな和紙が欲しい、というのをリクエストしてください。その要望に今は応えることができます。しかし、和紙の需要がなくなってきている状況で、近い将来にも、和紙を漉く職人が存続できるかどうかわかりません。どうか、どんどん和紙を使って欲しい」
和紙が無くなるかもしれない! これは日本文化の危機だと背筋が凍りました。木版画家として良い作品を作るのに必需品である和紙の職人がいなくなったら、版画家の作品の質も落ちます。今まで和紙を使っていなかった、和紙の摺りの素晴らしさを世界中の人にアピールできる作品を作りたいと強く思いました。駄作をいくら質の高い和紙に摺っても、和紙の価値を下げるだけ。和紙の価値をアピールするには、版画の題材、彫りの技術はもちろんですが、摺りの質を高め、もともと値が高い和紙を更に高く売れるレベルの作品にしなければなりません。職人の魂が込められた和紙につり合う木版画家にならなければ、という強い目標ができました。
私の知らない日本の美
今年出会った外国人の中で、私が神奈川に住んでいると答えるとすぐに「川端康成の地ですね」と返信してきた人がいました。私は川端康成の作品を一冊も読んでいなかったので、少し恥ずかしく感じ、読んでみることにしました。細やかな日本の四季や自然、着物や帯など日本にしかないものや、伝統文化に触れた部分などが、海外の人に伝わっていることに驚きました。そして、人の微妙な感情表現や、読者の想像力に委ねる少し曖昧な終わり方も受け入れられていることが不思議でした。
彼は小説だけでなく、日本の古典芸能や古い映画についても詳しく、私に日本の良いものを勧めてくれました。
私は今まで古い欧米文化に憧れていて、描く絵の場面も洋風な雰囲気のものが多かったのです。日本の古い文化についてあまり興味を持っていませんでした。特に、昭和の時代に育った私にとって、日本家屋などは少し暗くて怖く、畳や布団など、自分が育ってきた世界を描くのは気恥ずかしく思っていました。
今まで知らなかった古い日本の映画、小説や音楽から、優雅で曖昧な隠された表現、自然との調和、風刺とユーモア、陰影の美しさ、間や空気を大事にする距離感、研ぎ澄まされた緊張感、無駄を削ぎ落とした簡潔で素朴な表現など、私にとっての新しい日本の美の世界を教えられました。
和紙は、微妙な陰影を映しとることができます。白黒の手摺木版画でこの日本の独特な美を表現したいと作った作品は、今までの私から生まれたことのない新しい世界でした。
まだまだ摺りの勉強は続きます。世界の人々に、これが日本の木版画だ、と言って見せられるような作品、日本の和紙は凄いと感じてもらえるような作品を作りたいです。
- この記事を書いた人
- 【古知屋 恵子】版画家・絵本作家
茅ヶ崎在住。多摩美術大学油画科卒業後、おもに木版画作品を制作。白黒の一色刷り、多色刷りの木版画のほかに、手作りの紙芝居・カルタなど幅広く作り続けている。毎年、秋から冬にかけて茅ヶ崎や都内で個展を開催。著書に『ぎゅうぎゅうぎゅうゴトゴト』(新風舎1996年)、『ベルダのしごと』(遊行社 2018年)がある。
*作品は古知屋恵子の Instagramでもご覧いただけます。
https://www.instagram.com/kochiyakeiko/?hl=ja